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政治・社会・環境などの問題について、素人なりに考えたところをまとめときましょ。
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赤ちゃんポストには、基本的に賛成だ。

首相は、親の育児放棄に対して懸念されているようである。
しかし、そもそも子供は親が育てなければならないというのは、
そこまで人間の本質的な問題だろうか。

少し前の日本でも、「丁稚奉公」というようなシステムがあった。
さらに昔に遡れば、幼い頃に寺社に預けられる子供が多い時代があった。

これらは、ある意味で、
社会的に、子供の養育能力があるものが、養育を負担する。
という社会システムだったということができるのではないか。

人間社会は、時代時代に合わせて、
養育能力のあるところに子を委ねるという
合理的選択を行ってきたのだと考えることが出来るのではないか。

現代日本社会が、「子供は親が養育する」としているのは、
あくまで、民法がそう定めているからに過ぎない。
もちろんそれには、
親が育てることがもっとも社会的にコストが小さい。
という合理的判断がある。

子供は次世代の共同体を担う社会の宝であるという発想からすれば、
仮に親の勝手気ままな養育によって、
発揮されるべき子供の能力が阻害されているのであれば、
それをむしろコストととらえて、
親に養育を任せず、
他のセクターで育てるという方法も選択肢の一つであろう。

古代ギリシャのポリス国家スパルタは、それを国家として行った。

もちろん、スパルタ方式は極めて極端な例である。

しかし、
現代日本において、子は親のものだ、とか、
親が子の全面的な責任を持つ、というような
考えがまかり通っていることについては、疑問を感じる。

子は、親の子であると同時に、もっとも貴重な社会の資源でもある。

子を社会に貢献する大人に育てるのは、親だけの義務ではない。
親が負うのと同じくらい、社会の義務でもある。
ある親が義務を履行しない場合に、
その親を非難してみても、何のメリットもない。
現に親による養育がなされないのであれば、
直ちに社会が代わって、子を育てなければならない。

さらにいえば、
少子化に進む日本社会の維持ということを考えれば、
養育能力がない親からは、積極的に子供を剥奪して、社会の戦力に育てる
という選択肢だって、十分検討に値する。

もともと子の養育を親に委ねるか、
あるいは丁稚奉公や近世の寺社のようないわば民間セクターに委ねるか、
あるいはスパルタ式に公的部門の責任で行うかは、選択の問題である。

これまでは、
親に委ねるのが最もコストが小さいと考えられていたから
親に委ねられていたまでのことである。
親に委ねることが、リスキーになっているとすれば、
他の選択肢を取ることは当然である。

ポストがあるからと言って養育を放棄する親がいるのであれば、
そのような者に養育を委ねたままにするのは、
それは子供にとってはもちろん、
子供の健全な発達を必要とする社会にとって、
大いなるリスクではないか。

こうして考えると、
赤ちゃんポストというネイミングはどうあれ、
その方向性は至極当然のことに思える。
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人間は、「揺れ動く存在」であると思う。

生きすぎと反発によって、社会は進んできたと言っても過言ではない。

神の目から見た純粋に客観的な視点が仮にあるとして、
現在の状態が「0」であり、「50」が合理的で適正な値であるときに、
「50」を目指そうという主張は、聞き入れられにくい。
人々を動かしうるのは、
「100」を目指そうという極端なものである。

そうして、人々が動き、
値が80くらいに達した頃だろうか、
今度は、反発運動が起こる。

人々は行き過ぎに気づき、修正の欲求が生じる。
しかし、
それでも人間は、「50」に戻ろうという主張では、
簡単に腰を上げようとしない。
このときもやはり、
「今までの活動は間違っていた、0に戻ろう」
という主張によって、人々は初めて腰を上げる。

「50」を目指す運動が選択されるときがあるとすれば、
神の目をもつ稀な人間が、
強大な武力、権力を行使して、人々を強制的に動かした場合である。
大衆が内発的に「50」を目指すことが出来た例が、歴史上あるのだろうか。

もっとも、大衆は、いつまでも「0」と「100」の間を往復しているわけではない。
新たな価値の登場や、新たな事実の発見などの外的状況に影響を受けて、
その「揺れ動き」の幅は、振り子の収束のように徐々に小さくなる。
最初は行き過ぎに80で気づいていた人が、次には70で気づくというようにして、
長いスパンにおいて、50を選択して、歴史が形成されてきた。

歴史を見るに、このようにして人間界が進んできたことは明らかである。

この現象の原因は、
人間の本質的な保守性にあると考えられる。
長い間当たり前と感じてきた価値観や、社会のベクトルに対して、
容易にはむかうことが出来ない。
はむかった場合の結果としての世界像が、
明確な像として想像できたときに、
初めてはむかうことができる。
こういう明確な像を示すことができるのは、
いつの場合も、極端な思想なのである。
本日の、「そこまで言って委員会」。
環境問題について、「リサイクルはしてはいけない」の著者、
名古屋大学教授の、武田邦彦氏を招いての討論。

そこで語られたのは、

・日本の環境運動が模範とするドイツは、
 実は一人当たりの資源消費量は日本の2倍である。
・日本の大部分では、分別されたゴミの多くが
 結局焼却炉で焼却処分されている。
・ペットボトルはリサイクルでペットボトルになるわけではなく、
 疲弊した資源として繊維など限られた利用方法しかない。
・そもそも、リサイクル出来ている回収ペットボトルは、
 7%くらいのものである。
・ダイオキシンは、セ氏400~500度の熱で有機物を燃やすと
 発生し、それは、焼き鳥や焼き魚の煙でも同じである。
・ごみ焼却炉はより1000度近くの高温であり、
 ダイオキシンは発生しない。
・ダイオキシンの人体への影響の象徴とされるベトドクちゃんも、
 およそ特異な例が象徴として扱われているに過ぎない。

・これらをはじめとして、
 日本人に与えられている環境情報には誤りがある。
 政府(環境省)が公表する情報でさえ嘘がある。
 中には、国際機関と正反対の情報を流してさえいる。
 まずは客観的事実を正しく認識することが、
 真の環境問題への対策のために必要である。

などということである(記憶間違いの可能性アリ)。
どれも、説得力があったと思う。


環境問題への姿勢として、賛成である。
なにかを悪としてして設定して、その撲滅を目標にする
というような環境運動は、
均衡を崩し、新たな問題を生み出しかねないと思う。
(自分は罪に関わっていない)
という安心を得るのにしか役立たない。


環境を考える上では、
あくまで人間が生きるということは、
それ自体が多かれ少なかれ環境破壊であるということを
忘れてはならないと思う。
その上で、
あんまり人間にとって本質的に必要でない行動であれば、
無駄な環境負担は作らないようにしよう
という方向性で行くべきである。
議論の対象は、
なにが自然環境に悪影響を与えているのかという犯人探しではなく、
人間にとって、長期的視点から、
本当に必要な活動かどうか、
より合理的、効率的な活動かどうかという
議論がなされるべきである。

このような観点から、教授は、
リサイクルしない方がいいというのであろう。
リユース文化の再構築こそ肝要と主張されている。



とはいえ、
私は、それでもリサイクル活動に意味はあると思う。

ミミズの糞は、土になる。
すなわち、体と切り離された瞬間にミミズにとって環境となるのである。

人間が出したゴミも、ミミズの糞と同様、
それ自体人間にとって環境であると思うのである。

いつの時代も、外部環境=自然=資源である。
であれば、
ゴミもまた資源。

もとからの資源とされてきた化石燃料やらその他鉱物が減少する中で、
新たな資源である、“ゴミ”を、資源として、別の物を作り出す。
そういう文化自体は、
人間が生き続けていかなければならないとすれば、
決して不必要とは思えない。

そういう意味で、リサイクル文化には意味があると思うのである。


追記

武田教授本人が、番組後の反響に対応して、事後解説を試みておられます。
非常に説得力あります。
http://takedanet.com/2007/04/post_82ef.html
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