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政治・社会・環境などの問題について、素人なりに考えたところをまとめときましょ。
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国民投票法案が衆議院を可決通過した。
 
憲法が憲法改正の国民投票の存在を認めており、
また憲法の規定だけでは具体的な実施が不可能であるから、
国民投票の手続法は、憲法の実践のために必要不可欠の法案である。
不存在であったこれまでの状態は、ある意味では違憲の状態である。
そういう意味では、
一部野党が廃案しか訴えなかったことは、方向性を違えていたし、
「むしろ遅きに失したくらいだ」という自由民主党幹事長の発言は
もっともなことである。
 
「一日でも早く制定する」ことは憲法の要請であることに疑いはない。
とはいえ、 
国民投票法は、国家の基本的方針を決定する手続を定める点で、
他の一般的法律とは、明らかに重要度が異なる。
郵政民営化のように、「対決」で決するべき問題では到底ありえない。
高い政治的倫理によって、 制定課程の公正さが保持されるべきであった。

将来の国民投票の時点で、
結果的に少数者となった国民、不利益を被る国民が、
「その手続で行われ、出た結論なら、納得するしかない」
と、自発的に思う程度の、高い公正性が求められる。
 
その公正性はいかに実現されるか。
それは、第一には、法が定める手続内容それ自体の客観的な公正さ
によることはもちろんであるが、
それに匹敵するほど、
手続が定められた手続きの公正さによるところが大きいのだ。
 
多少なりとも、不公正と見られうるところがあれば、
将来の国民投票結果に不満を持つ勢力が、
結果の正当性否定の論拠として用いる可能性があり、
投票によって、問題に終局的決着をつけることが妨げられる。
 
今の日本において、憲法がアメリカによる押し付けであるとして、
必ずしも憲法価値の正当性を認めようとしない勢力がいるのと同じことである。
将来において、改正後の憲法が、
「当時の与党の強権的手法で一方的に押し付けられたものに過ぎない」
と軽んじられることが何よりも心配である。
 
そういう意味では、
他の法律と同じように、結果的に党派によって賛成反対が割れるという、
現時点の政争に引きずられた形で衆議院可決がなされたことは残念であった。
 
これは、必ずしも与党にのみ責任があるわけではない。
特に今回は、野党の姿勢には疑問を感じざるを得ない。
法律制定自体に後ろ向きなそぶりを見せる党。
内容以外の議論をことさらに持ち出す勢力。
終盤になって大差ない対案を出して形式的にのみ反対する党。
いずれも妥当な方法であったとは思われない。
対案は、提出するのなら序盤からしなければならない。
 
とはいえ、やはり与党ももう少し一般的法案処理とは異なる慎重さを
もつべきであっただろう。

例えば、自らの党にも党議拘束をはずすことを明確にして
野党にも議員個々で賛否を表明することを求めるとか、
いくらでも党派対立や政争化をさける手段はあったのだ。
 
特に、今回に限って言えば、個人的には、
「第1回の国民投票では、憲法9条改正をしない」
と明言するという手法が極めて有効だったのではないかと思う。
 
今回の議論は、本来なすべき手続法の中身の議論以上に、
その次の段階である、憲法改正議論が前倒しで混在し、
それによって、党派間の利害対立が先鋭化し、
国民の議論も混乱したという印象がある。
 
もちろん、9条改正問題は与党にとって、
あるいは、日本にとって、喫緊の課題である。
与党にとっては、改正できるとなったら、一番先に手をつけたいところだろう。
 
しかし、野党の批判の矛先が、
手続法制定後の安易な9条改正議論への恐れに向けられ、
一方で与党が、「中身の問題と手続きの問題は別だ」
という正論を言うのであれば、
9条改正を論争から切り離すことで、正論を形にし、
与党主導の下であっても、
与野党一致による国民投票法案の成立は、十分可能であった。

少なくとも、
議論を手続法の中身だけに収束させることができ、
筋違いの議論に余計な時間を浪費することはなかったのではないか。
国民も、安心して手続面について議論をすることが出来たはずだ。
 
9条改正議論は、もともとおそらく一筋縄では行かない。
であれば、与党にとって、これを2回目以降の改正に移したとしても、
実はそんなに不利な譲歩ではないはずだ。
他の条項の改正を1回目として分けることで、
より議論がスムーズになる可能性もある。

一方の野党にとっては、
「9条改正を遠のかせた」との大きな収穫となり、
支持者達に十分説明が可能だろう。
このあたりを見通して、
自らの求める政策にシビアに優先順位をつけ、
反対勢力の政策の優先順位を見極めて、
効果的な譲歩案として提出し、妥協を狙うべきであった。

 
それにしても、
ここ数年の国会は、本来議会においてなされるべき、
「すり合わせ」「妥協」ということが極めて下手である。
それどころか、場合によってはしてはならないことのように扱われている。
マスコミは、あらゆる政治的妥協を、批判の対象にしているように見えるし、
それに今の政治家はいちいち過敏に反応し、身動きとれなくなる。
 
特定の一人の考えが、そのまま現実の政策化するということは、
確かにわかりやすいものとなるかもしれないが、
その一人の現状認識を基に作り出された考えに過ぎない。
その一人が把握している世界でのみ、妥当なものかもしれない。
国民にとって、はるかに危険なのだ。
 
このことを、マスコミはもっと認識して、説明すべきであるし、
政治家は、何のために妥協するのか、どのように妥協するのか、
この妥協によって、政策にどのような優先順位がつけられたのか。
ということを正々堂々と説明する度量をもつべきである。
 
妥協が、常に骨抜きなのではない。
妥協は、常に守旧なのではない。
妥協は、より多数者の現実を反映させる方法であり、
より多数者の利益を追求する手法である。
さらには、優先順位の優劣を、シビアに検討する課程でもある。

美しく実効的な妥協をすることこそが、政治の役割なのである。
 

国民投票法の内容の適否には触れなかったが、
個人的に内容について参議院にひとつだけ期待したいのは、
最低投票率条項の盛り込みである。
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